中世ヨーロッパの風景 < 城について >

6.城の歴史

6−1.古代から10世紀まで


古代の城

 ヨーロッパでもっとも古い砦は、独立した丘の頂上部分を利用し、土塁や空堀で防御された広大な土城(Earthwork)と呼ばれる設備です。イギリス・ドーシットシャーにメイドン・カースルMaiden Castle(先史〜紀元前2世紀)の遺構が現存しています。

 ローマ帝国の時代には、城壁都市・城塞・陣屋・長城・道路・橋梁などの設備が、見事な技術と組織力をもって営々と建造されました。ロンドンのウェークフィールド・ガーデンズには都市城壁の一部が、クリップルゲート付近には城塞址が、そしてポーチェスター城の外壁にはローマ陣屋囲壁の完全に近い遺構が残されています。

 ゲルマン古代には、「人民城塞」(フォルクスブルクVolksburg)や、「避難のための城塞」(フリーブルクFluchtburg)と呼ばれる防御施設がありました。周辺の村々におよぶ貴族の支配拠点であり、戦時には一族郎党とともに、周辺の住民と家畜を保護・収容する建物でした。これは、中世の「領主城塞」(ヘレンブルクHerrenburg)いわゆる一般的な「西洋の城」と比べると大きく、多くの人々を受け入れることができました。

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9世紀の城

 ローマの築城術・攻城術が混乱期の中で忘れられても、ヨーロッパの豪族たちはそれなりの防備体制を敷いていました。つまり、住居・倉庫・家畜小屋・作業用広場などを壕や柵で囲むようになったのです。
 緊急時に避難してくる領民を収容するため面積は広く、1.5ヘクタール程度です。二重に囲む場合は8ヘクタールに達する場合もありました。たいてい、内外二つの防備線の間は耕地になっていました。

 9世紀、カロリング朝における宮殿は、古代ローマ皇帝の住居にならってパラティウム(Palatium)と呼ばれました。後に王侯一族・貴族の個人的な小家屋もこう呼ぶようになります。英語ではホール・ハウス(Hall-House)といいます。デーン人が侵攻し、フランク帝国が崩壊する頃(9世紀中頃〜後半)から、パラティウムは、ホール・ハウス形式からタワー・ハウス(Tower House)形式に変化していきます。

【コラム】タワー・ハウス

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ノルマン来寇

 さて、9世紀にはノルマン来寇という異民族の侵入がありましたが、カロリング帝国の対応は遅れ気味でした。841年ノルマンはセーヌ河をさかのぼりルーアンに到達、845年にはパリを初めて襲撃、865年にはパリ郊外に冬営陣を張ります。しかし同じ頃、ランス大司教エボンは、皇帝ルイ敬虔(ル・ビウ)に、ランスの城壁と市門を払い下げて石材を転用することを願い出て認められています。ノートル・ダムの聖堂を建立するためです。

 公的な防備体制の解体が進むにつれ、地方の豪族たちはノルマン来寇をはじめ地方混乱に対しては自力で対処するしかなくなりました。
 864年6月25日、西フランク王シャルル禿頭(ル・ショーヴ)の勅命は、国王の命令・許可なしに作られた城砦を8月1日までに取り壊すよう命じていますが、それほど多くの城砦が乱立していた、ということです。

 このころの戦争は常に局地戦で、ノルマン来寇といっても異民族侵入というより、むしろ慢性的な治安悪化といったほうがあたっていたようです。たとえ応急処置の防壁でも、地の利を得れば防備の効果は上げられました。これら零細で些末な砦の中から、中世の城が成長していきます。


10世紀の城

 ドイツは、ハインリヒ1世の時代(919〜936年)、9世紀以来のノルマン来寇と10世紀のハンガリー人の侵寇に見舞われました。ハインリヒ1世は、これらに対抗するため築城を奨励し、城による統治を推し進めたのです。こうして、雨後の竹の子のように城が急増し、最初の築城ブームが訪れました。

【コラム】ハインリヒ1世の城塞条例

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