中世ヨーロッパの風景 < 城について >

6.城の歴史

6−3.13世紀、城の衰退


13世紀の城

 13世紀の城郭は、側面防御(フランクマン)によって特徴づけられます。
 側面防御とは、城壁の基底部に死角を作らないよう、主として城壁に外接する円塔による突出部を設ける方式です。こうして、城壁に接近する敵軍を、側面から迎え撃つのです。有効射線を多くするには円塔は多いほどよく、隣り合う円塔どうしが弓矢の射程距離に収まるよう建造されました。また、円塔間の兵員移動のため、城壁を厚くして歩廊と胸壁を造り、城壁を支える控え壁(コントルフォール)を内側に立てて、その頂上をアーチでつなぎました。

 この傾向は、城の防御中心が城壁から円塔へ移行し、かつて守備の要であったキープ(ベルクフリート・ドンジョン)が縮小・消失していくことを意味しました。フィリップ尊厳(オーギュスト)風とも、フランコ・ノルマン風ともいう、ゴシック城郭の形式です。

【コラム】クラック・デ・シュヴァリエ


中世城郭の衰退

 中世の城郭(Burg)は、弓矢・弩・投石機などの攻城具には対抗できたものの、火薬の発明・普及がもたらした大砲による攻城には抵抗できませんでした。中世の城郭は存在の意義を失っていきます。近代要塞の「低さと厚さを求める」原理が城に採用されはじめるのです。スコットランドのエジンバラ城、ドイツのマリーエンベルク城、スウェーデンのカルマル城がその例です。

 軍事的理由ばかりではありません。
 城郭は堅固さを生命としたので、窓は狭く、採光は不十分で、暗くて陰湿な空気に満ちていました。しかし完成期に近づくと、城郭にも住居性が要求されるようになります。城主の日常生活の居間や、饗宴のホールなどが囲郭内の別の建物として設けられ、窓は内庭に大きく開かれ、新鮮な空気、豊富な光が求められました。キープはすでに不必要で、これを廃止する理由は大砲の破壊力だけではなかったのです。

 14世紀後半頃になると、城はその重点を防御性から住居性へと移していました。城郭は宮殿へと変わっていきました。宮殿になれなかった山城などは、廃墟となり、いまにその姿をとどめています。
 これ以降、近世に建造された城は、シュロス(Schloss)、レジデンツ(Residenz)と呼ばれ、より快適な居住性や、行政機関としての意味合いが強くなります。左右対称の庭園がつくられ、美しいドレスを着飾ったお姫様がすまい、貴族たちが華やかな宮廷生活を送る城、というとわかりやすいでしょうか。私たちがふだん想像する「西欧の城」は、近世の城のイメージが強く反映されています。あの有名なドイツのノイシュヴァンシュタイン城は、まさに典型といえます。

 ひたすら防御に徹した中世の城は、こうして消えていったのでした。



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