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文責:左馬

< 騎士たちの晴舞台 >

「トゥルネイ、これぞ騎士の嗜み」
            (教訓詩『ティロールとフリデブラント』)

4.騎士叙任式

 騎士叙任式が始まります。(またの名を、「刀礼」(とうれい)ともいいます。)
 これは騎士の一生のうちできわめて重要なできごとで、17〜20才の若者が軍事階級をになう新たな仲間の資格を持ち、同時にその責務を負う一人前の戦士となることを意味しました。法律的に、社会的に、職業的に、成人となるのです。

 聖堂でミサを行い、騎士になる若者が祝福されます。つぎに荘重な「佩剣」(はいけん)の儀式が行われます。「佩剣」とは、剣を腰に帯びる、という意味です。主君は自らの手で若者に剣を与え、また盾と槍を授けるのです。兜や拍車も渡され、騎士としての職務を特徴づける武具の授与が終わると、そのまま騎馬試合に移ることも珍しくありませんでした。群衆に施しがふるまわれ、最後は饗宴になだれこむわけです。

 史実から挙げると、1184年のマインツ宮廷会議では皇帝フリードリヒ赤髭王(バルバロッサ)の子息たちの刀礼祝いに盛大な騎馬試合(ブーフルト、トゥルネイ)が催されると聞いて、四万人もの騎士たちが集まったとされています。
 「聖霊降臨祭の月曜日には、皇帝フリードリヒの二人の子息、すなわちローマ人の王ハインリヒと、シュヴァーベン公フリードリヒが刀礼を受けて騎士となった。彼らは、そして、すべての諸侯や高貴の者たちは、この名誉ある祝祭にさいして、騎士や捕虜や十字軍志願者に対し、また吟遊詩人や男女の芸人に対し、馬や豪華な衣装、また金銀の贈物を、気前よくふるまったのである。」

 このように、騎士叙任式はもともと単純な通過儀礼でした。しかし、フランスでは12世紀末頃からしだいに洗練され、道徳的・宗教的な形式を整えるようになります。司祭が介入する度合がふえ、教会の守護者・キリストの騎士という色彩が濃くなっていき、それとともに儀式は複雑になり13世紀末には完成点へ到達します。みなさんが騎士叙任式と聞いて思い浮かべるのは、たとえば、次に述べるような情景ではないでしょうか?

 準備として、騎士叙任式の前日の夜から、剣が教会の祭壇の上に置かれます。騎士になる若者は入浴して体を清め(沐浴)、徹夜で祭壇に祈りを捧げつつ起きています。
 翌朝、執式者(主君)は祭壇に安置された剣を祝別していいます。
「彼が、教会、寡婦、孤児、あるいは異教徒の暴虐に逆らい神に奉仕するすべての者の保護者かつ守護者となるように」。
 次に、騎士になる若者が祝別される言葉は、
「まさに騎士になろうとする者に、真理を守るべし、公教会、孤児と寡婦、祈りかつ働く人々すべてを守護すべし」。(この二つの祈りの言葉は、昔の国王戴冠式に由来するものです。)
 司祭は祭壇の剣を取り、若者に渡します。剣はいちど鞘に収められ、いよいよ佩剣。執式者が剣を吊した帯を付けてやり、若者は(かつて皇帝が戴冠式で行ったように)三度剣を引き抜いて、また鞘に収めます。そうして厳かに剣を腰に帯びた若者に対し、執式者は平和の接吻を与えた後、彼の首または項(うなじ)を素手で打ちます。これを「首打ち」(リッターシュラーク)といいます。ついで列席した貴族が彼に祝別された拍車を授け、最後に旗幟が渡され、ようやく終わり。
 う〜ん、さすが、ここまでやると「儀式」という実感が湧きますね。

 騎士叙任の「首打ち」は、そんな儀式があるということだけなら、皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。「打ち返してはならぬ平手打ち」ともいう有名な騎士叙任の儀式手順ですが、フランスから伝わった「首打ち」がドイツで採用されたのは14世紀になって騎士道が落ち目になってから。これが全盛期に行われていれば格好良いのですが、世の中うまくいかないものです。
 なお「首打ち」には「剣の平で首筋を打つ」バージョンもありますが、史実に基づく根拠がはっきりせず、後世の創作かもしれません。戦争の最中に、主君が、戦功を立てた者をその場でひざまずかせて、剣で肩を軽く三度打つ儀式によって騎士とする「戦場での騎士叙任式」についても同様です。
 とはいえ、RPGで「騎士らしさ」を演出する一場面としてつかうぶんには何も問題ないと思います。

 ではそろそろ、初々しい若武者を追って、騎馬試合へ駆けていくといたしましょう。

5.騎馬試合

 「アーサー王と円卓の騎士」をはじめとする文芸作品でおなじみですが、騎士たちにとって、騎馬試合は実際の戦争と同じぐらい重要なイベントです。

 さてこの騎馬試合ですが、大きく分けて3つの形式がありました。
 それが、一騎打ち(チョスト)、団体騎馬試合(トゥルネイ、トーナメント)、団体騎馬競技(ブーフルト)です。

(1)一騎打ち(チョスト)

 二人の騎士による個人戦で、トゥルネイの前に行われました。
 名乗りを上げた騎士に対して、だれか他の騎士が応えれば試合開始です。試合場を決め、観客が周りを囲むと、二人の騎士は馬にまたがり、互いをめがけて突進。双方ともに槍を激しく突き出して、相手を鞍から落とそうとします。
 槍で狙うポイントは主に二つあります。
 一つは相手の「喉への突き」です。相手も盾で守っているので当てるのは難しいですが、命中すれば相手は気絶し、仰向けに倒れて落馬します。もう一つは相手の持つ「盾の中央」です。こちらは当てやすく、命中すれば槍は折れ砕けますが、強烈な衝撃で相手は鞍から放り出されます。
 激突しても、槍が折れるだけで双方ともに鞍から落ちなかったら、新しい槍を持ってきて勝負がつくまで衝突をくり返します。「槍をこれへ! 槍を!」
 勝者は、敗者から武具や馬を獲得するのがふつうでした。ときには、身代金を請求することもあったようです。報酬はルールで規定されていました。

(2)団体騎馬試合(トゥルネイ、トーナメント)

 単に「騎馬試合」というと、トゥルネイを指すのが一般的です。
 実戦さながらに行われる団体戦であり、実戦との違いは、「試合への招待がされたこと、あらかじめ条件について取り決めが行われたこと、また各軍のために敵の攻撃を受けない安全地帯が設定されたこと」でした。

 まず審判が参加者を二つの組に分けますが、友人や同郷者は同じ組になるよう配慮されます。そして、各組の参加者が自分たちの指揮官を選びます。
 前哨戦がはじまります。これは小競り合いで、たいてい一騎打ちがいくつか行われる程度でしたが、ヒートアップしすぎて前哨戦だけで力尽きることも稀にありました。
 戦闘開始の時刻になると、ラッパや角笛、太鼓が打ち鳴らされ、両軍の指揮官は配下の騎士たちに指示を下し、敵陣を突破しようと試みます。密集隊形で切り込んで敵の戦列を乱し、次には馬を転回させて、こんどは背後から襲うのです。しかし、ひとまず退却すると見せかけて、突然攻勢に転じるなどの戦術もあり、攻守はめまぐるしくいれかわって、ついには乱戦模様になるのが通例でした。白兵戦の混乱の中で、誰もが敵の騎士を突き落として捕虜にしようと打ち合い、とくに指揮官は狙われました。敵の統率を失わせるだけでなく、実利的にもたくさんの身代金が得られるからです。

 相手を捕虜にする方法は二つありました。
 一つは、喉元に短剣を突きつけるなど、相手を生命の危機まで追い詰め「降伏の確約」をさせる方法で、敗者は無抵抗で勝者の陣地まで同行せねばなりません。もう一つは、相手を力ずくで試合場から排除しようと、乗馬の手綱をつかんで騎手もろとも引きずっていく「手綱を引く」方法(ツォイメン)です。激しく抵抗する相手を片腕だけで押さえなくてはならず、腕力で圧倒的にまさっていなければできない芸当です。
 周囲には、棍棒を持った小姓たち(見習い騎士たち!)−彼らは「殴り屋」(キッパー)と呼ばれ恐れられました−も主君を助けようと控えているので、騎士を捕虜にするのは一苦労でした。

(3)団体騎馬競技(ブーフルト)

 ブーフルトは、トゥルネイとは異なる性格の団体戦でした。多くの場合、乗馬のデモンストレーションや騎馬による一種のパレードであり、騎手のすばらしい馬術を披露することが目的だったようです。たいがい盾を持ち、決して剣は使いません。
 前節でふれた1184年のマインツ宮廷会議でも、皇帝の子息たちの刀礼に続いてすぐに行われたのは武器なしで盾の技量を競ったブーフルトであり、トゥルネイは場所を変えて数週間後に行われるはずでした(ブーフルトの後、嵐がきて木造の教会や宮殿の建物が倒壊し、死傷者が多数出たため中止)。
 注意すべきは、ブーフルトが必ずしも危険性ゼロだったわけではないことです。盾を使って押し合う騎士たちが激しくぶつかることもあり、馬とともに倒れた騎士が他の騎馬に踏まれ腕や足を骨折したり、死者が出る危険さえあったのはチョストやトゥルネイと変わりません。

 さて、騎馬試合は、騎士たちの交流の場でした。旧友との再会、新しい友情が生まれることもよくありました。
 また、お見合いの場でもありました。騎士たちは最良の鎧と武器を揃え、勇敢に活躍することで、美しく着飾った貴婦人たちにアピールしたのです。「御婦人にミンネ(愛)を捧げる騎士殿は、競技に勝って褒美を得たまえ」と、伝令官が呼ばわります。将来、自分の城を継がせる娘婿の強さと技をじっと見ている父親もいます。「この男ならば剣を手にして、相続財産を守り抜くだろう」。
 一攫千金の場でもありました。貧しい遍歴騎士が、騎馬試合(および戦争)で戦利品を得ることで生計を立てることもよくありました。実力が伴わないのに名声を追う領主が騎馬試合で負け、乗馬や武具を失い経済的に破滅して、富裕な市民の金貸しのもとへ赴くことも。

 それだけではなく、トゥルネイには騎士の他にも多くの人々がやってきて、何日も、ときには数週間も続きます。森や城壁の近くで試合が行われると、放浪者や商人たちが群がってきます。前者は「先触れ」(紋章について口上を述べる職)として雇ってもらうため、後者は騎馬試合の日に立つ市で商売するためにやって来たのです。中世の人々にとってトゥルネイはお祭りであり楽しい娯楽のときでした。

 RPGでファンタジー世界を扱うとき、騎馬試合を舞台にしてみてはどうでしょうか?
 PCが騎士であればもちろん、そうでなくても魅力的な催しになると思いますよ。

 ここで話は変わりますが、遊びで死者が出るとなれば、教会はいい顔をしません。信仰を守るべき戦士が群をなして力を誇示し、無分別にも流血沙汰をひきおこすとはケシカランというわけで。1130年、教皇インノケンティウス2世がクレルモン公会議で「騎馬競技禁止令」を出したのを皮切りに、何度も禁止令が出されました。違反した者には教会による埋葬を拒否、さらには破門をもって臨むと警告したのですが、騎士たちが悔い改めることはほとんどありませんでした。
 ある年代記には1175年に16名の騎士がトゥルネイで死亡したとあり、別の記録は1241年には60〜100名の騎士が死亡したと伝えています。ラウズィツ辺境伯の子息コンラート伯(1175)、ヘンリー二世の第三子ジョフレー(1186)、マンドヴィルのジョフレー(1216)、ペンブローク公(1241)、サセックス公の息子ウィリアム(1286)……、高位の人物も死を免れませんでした。

 古代ローマ・ゲルマンの頃から存在した騎馬試合ですが、早くも13世紀半ばには、先を丸めた金属半球に代えた「たんぽ槍」が登場します。鋭利な槍が突き刺さって大怪我に至るのを避けるためです。参加者は騎士の家系を自慢するようになり、騎馬試合は実戦の訓練・社会的昇進の手段から、特権階級のスポーツになっていきます。14世紀には、兜は前立てと飾冠で飾られ、(槍が命中しやすい)胸部左側を強化した一騎打ち用の鎖かたびらが出現します。15世紀になると、一騎打ちで試合相手が衝突しないよう両者をへだてる障壁−「矢来」(やらい)が設けられます、……などなど。
 こうして古いタイプのトゥルネイ、純粋で危険な戦闘ゲームは、中世末期には形式化し、理想化された過去の中へと消えていきました。

 さあ、歴史の講釈はこれぐらいにしましょう。
 汗を流したら、次の節では宴会が私たちを待っていますよ。

(続く)

【おもな参考文献】
「中世の騎士文化」
  (著:ヨアヒム・ブムケ、訳:平尾浩三ほか、白水社、1995年)
「中世の森の中で 生活の世界歴史6」
  (編:堀米庸三、河出書房新社、1975年)
「中世への旅 騎士と城」
  (著:ハインリヒ・プレティヒャ、訳:平尾浩三、白水社、1982年)
「中世フランスの騎士」
  (著:ジャン・フロリ、訳:新倉俊一、白水社、1998年)



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