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文責:左馬

<  中世の都市人口  >

「都市は大いにして、天に届く壁をめぐらしぬ」
                 (申命記・第一章二十八節)

0.はじめに

 中世風ファンタジーで都市を扱うときに、しばしば問題となるのがその人口です。シナリオであなたが訪れる都市には、どんな特色があるのでしょうか。それを知る手がかりの一つが、都市の人口です。人口が千人の街と百万人の超大都市では、あなたのキャラクターの行動方針もだいぶ変わってくるはずです。
 では、実際の中世ヨーロッパの都市には、いったいどれほど多くの人々が生活していたのでしょう? ここでは、人口を切り口に中世都市を描いてみたいと思います。
 それでは、しばし人口の話におつきあいください。

1.中世農業の進展

 ローマ帝国が没落した5世紀以後、地中海周辺に広がる都市文明はその中心をイスラムへと移しました。アラブ人は、バグダッド・コルドバ・パレルモなどに代表される、数十万人―ときには百万人―を擁する巨大都市を建設しました。一方で9世紀頃までのヨーロッパは森林におおわれた農村社会であり、東方のイスラム・ビザンティンとは比べものにならない小さな勢力でした。中世初期のヨーロッパは、文明の中心から離れた辺縁に位置していたのです。

 ところが10世紀以降、ヨーロッパの力は次第に大きくなっていきます。農業生産の増大、経済力の上昇、そして人口の増加が目立ってきます。これが11〜13世紀にヨーロッパで多くの都市が成立する背景となるのですが、ではなぜ、この時期にヨーロッパの人口は増えていったのでしょうか?

 その要因として、農業の進展があげられます。
 技術的には、三圃農法をはじめ、水車による製紛場・撥土板つき重輪鋤・改良された馬の牽引法(繋駕法)・蹄鉄の使用・唐竿(打穀棒)などが主なものです。
 これらの技術は中世初期以前からありましたが、一般にヨーロッパ全土へと広まっていったのは中世盛期のことだと考えられています。

 三圃農法を例にとってみましょう。

 三圃農法とは、耕地を冬作・夏作・休閑(放牧地)の三つに分け、一年ごとにローテーションを組んで使う耕法です。この新しい農業制度は、播種量に対する収穫量の割合(収穫率)を大きく引き上げました。中世では、収穫した穀物から来年の種籾分をとっておかねばならない割合が高いので、土地の生産性が上がるにつれて養える人口は大幅に増えます。収穫量の2分の1を蓄えておく必要があるとしたら、収穫量が1.5倍に伸びるだけでも、人口は2倍に増えうるのです。(これは収穫率が2、つまり収穫量が播種量の2倍の場合です。実際の中世ヨーロッパでの収穫率は3〜4ぐらいだったとされています。)

 9世紀、西・中部ヨーロッパを統合したカロリング朝では、一部の地域で当時から三圃農法が行なわれていました。これが西北ヨーロッパに普及していったのは、12〜13世紀のことです。変化はゆっくりと、そして地域により違いを見せながら広がっていきました。こうして、9〜12世紀にかけて連続的な農業生産の増大がおこり、都市の成長を促す経済的交流をもたらしていきます。
 (これら一連の農業技術の進展を「農業革命」と呼び、産業革命とならぶ飛躍的な革新とみなす向きもありますが、手控えたほうがよいでしょう。)

 中世都市は、周囲の農業生産力が上昇したからこそ、成立・発展を遂げることができたのです。

2.中世ヨーロッパの総人口

 中世盛期、ヨーロッパの人口は明らかに増大しました。特に12〜13世紀には、加速的な人口増をみせました。ここまでは、さまざまな文献で言われていることです。

 問題なのは、資料がないため明確な数字が分からないことです。現代の先進国に住む私たちは、自国の人口を完璧に把握できます。しかし、中世ヨーロッパには、まともな戸籍や国勢調査はほとんどありませんでした。イングランドの租税台帳「ドゥームズデイ・ブック」(1086年)などの史料を参照できるのは、むしろ例外的なケースなのです。

 では、当時のヨーロッパの総人口は、どのぐらいあったのでしょう?

J・C・ラッセル[1948]は、1000〜1340年の間に3850万人から7350万人に増加したという数字を提示しています。
また、ファン・バート[1954]は、次の表を作っています。
(括弧内のパーセンテージは、その年以前の50年間での人口増率)

1000年4200万
1050年4600万(9.5%)
1100年4800万(4.3%)
1150年5000万(4.2%)
1200年6100万(22.0%)
1250年6900万(13.0%)
1300年7300万(5.8%)

 しかし、近年の研究者たちはこれらの数字を鵜呑みにせず、根拠の曖昧な推測を排して、より「正確な」人口を出そうとしています。
 その結果として、フランスの人口は1000年〜1328年にかけて約600万人から2100万人に増加したとか、イタリアの人口は1000年〜1439年にかけて500万人から930万人に推移した、などの研究[Dupaquier,1988][Bardet/Dupaquier,1997]がなされていますが、これらの数字ですら最終的に決着したものではないのです。
 (イングランドのドゥームズデイ・ブックには、1086年〜1346年の間に人口が170万人から370万人になったと記されています。)

 けっきょく確実に言うことができるのは、10世紀から14世紀半ばにかけて西〜中部ヨーロッパ(フランス・ドイツ・イギリスなど)では弛みなく人口増加が起こり、その増加率は3〜4世紀間で約3倍にもなった、ということぐらいです。

 数字というのは、一見確実なように思えるので、一人歩きしやすいものです。そのことを忘れずに、以下の数字をご覧ください。

3.中世ヨーロッパの都市人口

 それでは、おまちかねの都市人口です。
 中世盛期のヨーロッパでは、都市人口はどれくらいあったのでしょうか?

 史料が不足しているため、中世ヨーロッパの総人口と同じく、その都市人口も明確な数字としては分かっていません。しかし概算のイメージであれば、数多くの断片的史料から想像できます。先に、中世初期〜盛期の人口が極めて巨大な都市(数十万人クラス)は、ビザンチンやイスラム教下のスペインといったヨーロッパ文化圏以外の場所にあった、と述べましたが、もうお分かりですね?

 中世ヨーロッパで「大都市」と呼ばれる都市は、今日では「のどかな小都会」に分類される規模が大多数なのです。

 中世最大の都市パリでさえ、その人口は5〜15万人(時代や資料によって異なります)。他の大部分の都市は人口1000〜2000から6000人ぐらいのもの。大きくても1〜2万人程度でしかありません。

 では実際に、どれぐらいの人口を持つ都市が、いくつぐらいあったのでしょうか?

(1)ドイツ

 まず中世ドイツを見てみましょう。

 ローマの流れを汲む中世ドイツ最大の都市ケルンは、1000年ごろに人口約1万人、12世紀に約2万人、14世紀中頃には市壁内に約3万人の住民を収容していました。しかし、この巨大都市は明らかに例外です。当時のドイツの都市人口は大多数が5000人以下で、1万人以上の都市はわずか15ほどあるにすぎませんでした。
 中世後半にドイツ周辺で人口1万人以上の大都市というと、ケルン以外では、

 ニュルンベルク・シュトラースブルク・アウクスブルク・ウルム・ヴュルツブルク・エアフルト・ブレスラウ・ブラウンシュヴァイク・リューネブルク・プラハ・ウィーン、および、若干のハンザ同盟都市:リューベック・ブレーメン・ハンブルク・ダンツィヒまたはロストック

といった名前があげられます。
 これらの都市の大部分は中世後期も遅くなってから、しかも比較的短期間に発展したため、中世盛期には大都市というほどの規模ではありませんでした。

 都市数のほうを見てみますと、11世紀中頃にはドイツには約120の都市があり、1150年ごろのドイツ帝国には200ほどの都市が存在していました。1200年頃にはその数は3倍になり、13世紀に入ると東方の植民都市を加えて2000近くになり、中世末期には約3000に増えました。
 さて、ここで中世ドイツの都市総数から人口1000人を越す約200の都市を引くと、人口1000人を下回る都市が約2800残ります。そのうち、人口1000〜500人の都市は約350ぐらいですから、中世ドイツ都市の約80%(2400)が人口500人以下、つまりは市壁を巡らせた村落の域を出なかったということになりますね。
 人口200人以下という、小都市よりも小さな極小都市もあったぐらいです。これは集落と呼んでもよい規模になります。中世において、農村と都市は、その大きさだけでは分けられないのです。

 (ちなみに、1970年度のミュンヘンの人口は134万人、ハンブルクは181万人、フランクフルトは66万2000人でした。当年度の西ドイツ統計年鑑によれば、人口1万をこえる市町村数1610、大都市数115となっていたそうです。)

(2)イタリア

 13世紀末、地中海商業で栄えた北・中部イタリア地方には、人口2万人以上の都市が23ありました。フィレンツェは約8万、パドヴァは3万5000、ヴェネチアとミラノは14世紀にほぼ10万に達しています。ほかの人口2万5000人以上の大都市は、ジェノヴァ・ボローニャ・ナポリ・パレルモあたりです。
 (ちなみに、聖なる都ローマは衰微の一時期を過ごした後、14世紀初めにわずか人口1万7000を数えるに過ぎませんでした。)

 郷土の歴史を綴る年代記作者は、祖国愛をこめて(いささかの誇張もまじえて)、次のように記しています。

 1287年、ミラノには約3000の水車場、1000の酒場、1345の教会、150の病院があり、公証人400人、裁判官200人、医者200人、教師80人、修道院には1万人の修道士、修道女が暮らしていた……。

 同じ頃のフィレンツェでは、8000人から1万人の子供たちが学校で基礎教育を受けていたという指摘もあります。ピサ市には1228年、すでに125人の鍛冶屋、112人の靴屋、85人のなめし屋、64人の毛皮屋がいました。

(3)イギリス

 イギリスでは11世紀末、ロンドンの人口は約1万人、ウィンチェスターとヨークはそれぞれ約8000人となっています。これらの都市は、12〜13世紀に大規模な発展を遂げます。ロンドンは、1200年には4万人、1300年には(1600年と同じ)8万人を数えます。これは大陸における商業ネットワークとの結びつきに支えられた経済的繁栄によっている、という研究があります。

(4)フランス、フランドル地方、スペイン

 14世紀のフランスでは、ヨーロッパで最も巨大な都市パリの人口は約8万人(14世紀初頭)です。ほかには、ルーアン・トゥールーズ・リヨン・ボルドー・アミアンが人口2万人、マルセイユ・アビニョン・モンペリエ・リールが人口1万人といったところ。
 そして、まだ見ていない人口2万5000人以上の大都市は、

フランドル地方:ブリュージュ・ガン・ブリュッセル・ルーヴァン・イーペル・トゥールネ・リエージュ

スペイン:バルセロナ・コルドバ・セビリア・グラナダ

となります。


 現代の感覚からすると、中世の「大都市」が小さく感じられるのは分かっていただけたでしょうか?  しかし、中世一般の人々−つまりほぼ一生を自分の生まれた村から出ずにすごした人々−から見れば、人口1万人程度の都市でも未知の新世界であったことを想像してください。おそらく、今の私たちが人口一千万人の都市を訪れる以上のカルチャーショックがあったことでしょう。ケルンのような人口数万程度の都市でも、私たちが今の都市に見るよりはるかに多くの機能を担っていたことを記しておきます。

4.中世ヨーロッパの都市面積

 現代から見た中世ヨーロッパの都市の特徴としては、少ない人口ともう一つ、市域が狭いことがあげられます。人口がどんどん増えてくるのに対し、都市を囲む市壁はそう簡単に拡張できません。いきおい都市は稠密になり、衛生をはじめさまざまな問題を抱えることになるのです。

 都市の空間的な広がりについて、再びドイツの例を見てみましょう。

 市域の広い都市から。
 ローマ時代からの名望ある古い都市は、その面積を著しく拡張していきました。中世初期までに一度は縮小した市域を、ふたたび周囲へと広げるだけの力があったということでしょう。
 たとえば、アウグスブルク(14世紀187ha、現代86平方km:以下同様)、ハンブルク(106ha、747平方km)、フランクフルト(120ha、194平方km)、ネルトリンゲン(93ha、1426ha)などがその例です。
 ライン河上流の司教都市ヴォルムスはかつてから大きく、13世紀に初めて市壁を改築しましたが、シュパイヤーは11世紀だけで3度も市壁を建て替えています。オットー帝時代には10haだったのが、12世紀半ばに約60haに拡張したのです。シュトラースブルクの旧市域の面積は、司教の居城とあわせて19haでしたが、11世紀には54haに広がりました。ドイツ最大の都市ケルンはどうかというと、1180年着工の囲壁が19世紀末まで存続しましたが、この市域も236haから400haに広がっていきました。

 ほとんどの都市は、もちろんこれらより小さいものでした。

 13世紀に新しく建設された都市の大きさは、だいたい10〜20haでした。15haというと、長方形の都市なら縦300m×横500m、円形都市なら直径400m強の規模と考えてください。
 さらに、ツィッタウ(8ha)、ボッパルト(4.5ha)、ヤウアー(1.5ha)のような平均より小さな都市もありました。ヤウアーになると、どこかの学校のグラウンドに収まりそうですね。

 人口も市域面積もよくわかっていないのに、人口密度を考えるのはちょっと無理がありますが・・・・・・。まあ、当時から住みやすいと言われたケルンの値を参考にしてみますと、12世紀に約2万人が236haに住んでいたので、人口密度は約1万人/平方kmぐらいがちょうどよかったのかもしれません。あくまで目安程度ですが。

【付記】

中世後期の主要都市について、「外側の」城壁内面積を表にしたものがありました。
実際の居住区である市域よりは数値が大きくなりますが、参考にしてください。

ヴェネツィア(市と隣接諸島)約600ha
ミラノ(15世紀のヴィスコンティの城壁内)580ha
ガン(14世紀の城壁内)570ha
ケルン(1180年の城壁内)560ha
フィレンツェ(1284年の城壁内)480ha
パドヴァ(15世紀のヴェネツィア人の城壁内)450ha
パリ(シャルル5世の1370年の城壁内)440ha
ブリュッセル(1357年の城壁内)415ha
ボローニャ(13世紀の城壁内)400ha
ルーヴァン(1357年の城壁内)395ha
ヴェローナ(14世紀のスカリジェーリの城壁内)380ha
ブリュージュ(1297年の城壁内)360ha
ピアチェンツァ(14世紀の城壁内)290ha
ティーネン(14世紀の城壁内)250ha
ナポリ(15世紀のアラゴンの城壁内)200ha
ピサ(12世紀の城壁内)200ha
バルセロナ(1350年の城壁内)200ha
シエナ(14世紀の城壁内)180ha
リューベック(13世紀の城壁内)180ha
ロンドン(中世に修復された古代ローマの城壁内)160ha
ニュールンベルク(1320年の城壁内)160ha
メケレン(14世紀の城壁内)160ha
フランクフルト・アム・マイン(14世紀の城壁内)150ha
アヴィニョン(1356年の城壁内)140ha

5.中世後期の人口減少

 さて、順調に右肩上がりを続けてきた西ヨーロッパの総人口グラフは、14世紀に入ると劇的に減少してしまいます。

 いったい14世紀に何が起きたのでしょうか?

 11〜13世紀、農業技術の進展によって養える人口が画期的に増えたことはお話しましたね。14世紀にはいると、その農作物の供給が頭打ちになり、養える人口は限界に近づきました。

 さらに、気候不順により飢饉が頻発します。1315〜1317年の飢饉では、3年間にわたる長雨がピレネーからロシア、スコットランドからイタリアまで多数の死者を出しました。ブリュージュとイープルでは、毎週150〜190人の餓死者が出た時期すらあります。両市ではわずか半年で2000〜2800人(人口の5〜10%)が失われました。

 そして、1347年シチリアに上陸した黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの人口を激減させます。古い資料ですが、ヘッカー[1859]によるとヨーロッパの主要都市の死者数は次のごとしです。

フィレンツェ:6万人、ヴェネツィア:10万人、マルセイユ:7万人、パリ:5万人、アヴィニョン:6万人、リューベック:9000人、ロンドン:10万人

 この数字が正確でないとしても、まさに猛威といえるでしょう。全体を通じてヨーロッパの総人口の4分の1〜3分の1が失われました。都市や島嶼での死亡率はさらに高く、50%をこえたところさえあります。廃村となった荘園も数多く、農村の方がましとはとてもいえない状況でした。
 つけ加えるに、14世紀はイギリスとフランスが百年戦争(1337〜1453)をはじめた時代でもあります。

 かくして、西ヨーロッパの14〜15世紀は、飢餓・悪疫・戦争の時代となったのです。動揺し、混乱し、「死を忘れるな」(memento mori !)が合言葉となる中世末期の社会は、やがてルネサンスへ進んでいくことになります。

【付記】

蛇足ですが、現在に至るまでの世界人口を追ってみました。

BC400年1億5000万人
AD1年1億7000万人
600年2億人
1000年2億6500万人
1500年4億2500万人
1600年5億4500万人
1700年6億1000万人
1800年9億人
1900年16億2500万人
1950年25億人
1975年39億人
2001年8月61億人
(2050年 93億人に達する見通し)

中世の都市人口の話、いかがでしたでしょうか?

 RPGをプレイするとき、この記事が都市人口の設定に少しでも役に立てば、筆者にとってこれほど嬉しいことはありません。

それにしても数字ばっかりで、今回は疲れました。
次は面倒ぬきでいこうと思います。


【おもな参考文献】
「環境と文明−環境経済論への道」
  (著:湯浅赳夫(ゆあさ・たけお)、新評論、1993年)
「人口と歴史」
  (著:E・A・リグリィ、訳:速水融(はやみ・あきら)、筑摩書房、1982年)
「図説・都市の世界史−2 中世」
  (著:レオナルド・ベネーヴォロ、訳:佐野敬彦・林寛治、相模書房、1983年)
「西洋中世史研究入門」
  (編:佐藤彰一・池上俊一・高山博、名古屋大学出版会、2000年)
「中世の日常生活」
  (著:ハンス・ヴェルナー・ゲッツ、訳:轡田収・川口洋・山口春樹・桑原ヒサ子、中央公論社、1989年)
「中世への旅 都市と庶民」
  (著:ハインリヒ・プレティヒャ、訳:関楠生(せき・くすお)、白水社、1982年)
「中世ヨーロッパ都市と市民文化」
  (著:フリッツ・レーリヒ、訳:魚住昌良・小倉欣一、創文社、1978年)
「農業恐慌と景気循環」
  (著:W・アーベル、訳:寺尾誠、未来社、1972年)
「農民のヨーロッパ」
  (著:ヴェルナー・レーゼナー、訳:藤田幸一郎、平凡社、1995年)
「ペスト大流行 ―ヨーロッパ中世の崩壊―」
  (著:村上陽一郎、岩波書店、1983年)
「封建制社会−新書西洋史3」
  (著:兼岩正夫、講談社、1973年)



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