【膜間:クグツ】

 天羅とは,《巨大ロボット》に《ロリータ系美少女》のRPGだとかなんとかいう批評をどこかで耳にしたことがあるのですが,まあ,ルールブックを見た限りではそういうこともない,気もするのですが,しかしルールブックの表紙やイラストを見る限りでは,確かにそのとおり.売り手は,商品を売るために,イメージを付与する.そのイメージは買い手の欲望に訴えかけることを想定して選ばれたもの.だから,僕たちの欲望をかきたてるモノは,《彼》によればやっぱり,巨大ロボットとロリータ系美少女なのですなあ.いや,〈零〉になってから,《巨大ロボット》の方は表紙から居なくなりましたね.ハイ.

 ともあれ,君たち(我々)によれば,我々(君たち)の欲望をかきたてるモノは,巨大ロボットとロリータ系美少女――『零』になってからは《ロリータ系美少女》only――なのです.なのでしょうか?

 いやね,《ロリータ系美少女》は僕も好きさ(って,一緒にするなとか言われそう).だけど僕,《ロリータ系美少女》が好きな男は,キライなのよね.

 とはいえこれは僕の好み.僕の〈主張〉.だから僕が『天羅万象・零』を遊ぶときには,《ロリータ系美少女》をシナリオに登場させなければ良い.

 とも思うのだけれど,シナリオにはやはり登場させますね.可憐な〈傀儡〉や〈姫〉かつ〈ヨロイ乗り〉.それは,僕がこういう《ロリータ系美少女》が好きだから,という理由もあるのだけれど,そもそもこうした《ロリータ系美少女》が登場しない〈天羅〉のシナリオって,成立するのだろうか.

 我々は〈物語〉を作る.〈一対五千という対立構造〉をみて,〈五千の兵が勝つのは当たり前である〉と判断する.〈それでは“お話”にならない〉と判断する.〈“お話”を作る〉ため,“お話”になるような〈一〉の勝利のために,〈気合〉を獲得する.だけど,そもそも〈我々〉は“お話”を「作りたい」のだろうか(〈作る〉ことと〈語る〉ことって,少し違う気がする).

 〈我々〉が好んで作る“お話”とそうでない“お話”がある.〈我々〉の好みに合わない〈物語〉は〈“お話”にはならない〉.その〈裁定者〉となるのは〈ゲーム〉をツールに〈お話〉を〈作る〉者たち.〈我々〉そして〈君たち〉の,“常識”……その《視点》.これが《カッコ良さ》を〈裁定〉する.

 ……ひどく疲れる.

 《ロリータ系美少女》が登場しない〈天羅〉のシナリオって,成立するのだろうか――という僕の不安がそこにある.『真・女神転生』シリーズのどこかの作品のキャッチ・コピーに《アクマでも,愛してくれる?》というのがあったけれども,うん,《アクマ》でも愛しますよ.僕は.キミが可愛ければね(そして最近のワカモノの傾向だと,相手が自分に“愛されたがっている”こともまた,自分が相手を愛する条件らしい).

 なんだろう.『天羅万象・零』のシナリオを作るときに考えるのは,こんなこと.

 醜い子は愛してもらえない

 悪い子は愛してもらえない

 ……「愛してもらえない」ことを「悲劇」に仕立ててもらえなかった子は愛してもらえない――モブですよ,モブ!

 (そういえば,「悲劇」とは〈物語〉ですね)

 つまりは,〈やられ役のザコ相手に[邂逅]ロールを振る必要はないということだ〉.〈『天羅万象・零』で必要なのはこのイヤな気分なのである.……まったくイヤなゲームだな〉.

 つい先日,『AIR』をヤリながら「やはりこうしたゲームにでてくる女の子って,可愛らしく描写されているよな」,な〜〜んて思ったり.《青年は,ひとりの少女に出会った》.人形のような女の子.

 ボクは,〈君たち〉そして〈我々〉がルールブックの表紙に描きたてた〈我々〉そして〈君たち〉の欲するモノ――《ロリータ系美少女》を,"お話"のなかにチラツカセなくてはならない.ボクは《子供たちを相手に人形芸を披露する.しかし,さっぱり受けない.いつもとはどこか勝手が違う》.《観客の興味を引くには,青年の芸は退屈すぎた》.

 《ユーザー》の《ニーズ》を意識して,僕は《少女》の〈物語〉を〈悲劇〉に仕立てなくてはならない.プレイヤーに"お話"を作ってもらうために.プレイヤーの"お話"にたいする欲望をかきたてる為に,〈物語〉を《流通》させ〈共有〉するために.

 《ニーズ》ある限り《生産》は続く――《増殖》し,《わたしの顔》を失う愛らしい〈傀儡〉たち.

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