中世ヨーロッパの風景 < 城について >

5.城の概観

5−1.城の外側


城への道

 では、じっさいに山城へと歩いていきましょう。

 まず気づくのは、せまいうえに急に傾斜した坂道が、曲がりくねって城へと登っていくことです。砂利を敷いた道は、せいぜい騎馬一騎がようやく通れる程度の幅しかなく、ここを通るしかない攻撃側は一列縦隊を強いられました。また、小道は地勢の許すかぎり、城に向かって左側に沿って、上から見ると時計回りに、つまり城を右側に見ながら近づくように造られています。防御側の立場で考えるとわかりやすいのですが、こうすれば攻撃側は「楯のない」右側を城に向かってさらすことになり、城から放たれる弓矢の射撃に対して脇腹を守りにくくなるのです。

 さらに、城へと通じる道はいくつもの箇所で閉鎖できるよう計算されています。木橋、階段、梯子などを通過するときには、わざとせまい隘路にして防御しやすくしていました。そうした場所を通過するごとに、いちいち閉鎖して守りを固めるのが常だったのです。
 近づく者に苦難をもたらすこの小道は、ときに城の周囲を何周もしました。ケルンテンのホーホオーステルヴィツ城では、なんと3周もしています。

 いまは周りを緑の樹木に囲まれている古城でも、中世の当時、城にいたる斜面は禿げ山でした。てがかりは茨の灌木ぐらいしかなく、これがまた登攀を困難にしました。斜面には何重にも柵が張りめぐらされていることもありました。環状城壁(リングマウワー)が完全に残っている、フランケンのコルムベルグ城がその例です。このように幾重にも防御がなされている城をツヴィーベルシャーレブルク(タマネギ皮の城)と呼んだそうで、剥いても剥いても大丈夫ということでしょうか。

 山頂では、完全に木が伐採されています。城から弓矢などがとどく射程範囲は、見通しを良くしておかねばなりません。見えない場所からこっそり忍び寄られたり、近くに隠れて待ち伏せされたら、たまりませんからね。


 ようやく城の前までたどり着きました。見上げるあなたを威圧するように、高い城壁がそびえています。自然の岩盤を掘削して作った堀の上に、橋が渡されています。

 橋は、頑強なつくりの橋梁か、または、簡単な作りの可動式の跳ね橋です。
 跳ね橋を上げきってしまうと、扉にぴったりあてがわれた遮断柵になることは珍しくありません。城門の中の滑車には鎖(または強力なロープ)が通じていて、おもりの力で橋は簡単に巻き上げられました。
 低地オーストリアのハイデンライヒシュタイン城のように、幅の狭い小橋が傍らにかけられていて、訪問者がくるごとに大きな跳ね橋を操作しなくてもよい場合もあります。

【コラム】跳ね橋の構造


門番

 さて、城に入ろうと思ったら、門番に頼んで跳ね橋を下ろし、城門を開けてもらわねばなりません。あなたは、城門か近くの塔の上にでっぱっている出窓(ペヒナーゼ)を見上げて、門番に挨拶し、入城の許可を求めます。合い言葉が必要なこともあります。

 門番は、ふだん城門の傍らの部屋に詰めています。ここには、冬でも夏でも一人は詰めていなければならないので、暖房が利くようになっています。門番は、客と挨拶を交わし、入城を監視するだけではありません。備蓄品を定め、農民の貢租を帳簿に記し、谷から回り道をいとわずやってくる巡礼にわずかな路銀を差し出す、そうした重要な仕事も担っています。たいていは、城主にとって信頼できる親族の者がこの職務に就きました。

 なお、出窓(ペヒナーゼ)の「ペヒ」とはピッチ(コールタールみたいなもの)、「ナーゼ」とは鼻、突出部のこと。戦闘の際に、城門まで迫った敵めがけ、熱湯や沸きたったピッチを注ぐ窓、という意味を持っています。


城門

 橋を渡ると、すぐに城門(ブルクトーアBurgtor)です。城門の上の横には、石に彫られた城主の紋章が飾られています。

 門の幅は2〜3mとせまく、馬と馬にひかれた車が通れるぐらいでした。門扉は重い樫の木で作られ、表には鉄の薄板がかぶせられています。木製でも、鉄の鋲が打たれた扉は強固でした。さらに、丸太の大閂を内側に通して防御力を高めます。閂を外すときは、丸太は城壁内につくられた暗渠におさまるようになっています。直径約10cmのものを、ときには10本も使いました。こうして、突貫や放火による攻撃をしのいだのです。

 ベーメンのカールシュタイン城、東ドイツのヴァルトブルク城のように、両脇に塔を建てて守る城門もあります。城の生死を決める守りの要ですから当然かと思いきや、戦闘では内側から材木や岩のバリケードでふさがれるので、それ以上に強固に防御することは、実はそれほどなかったようです。門が耐えられなければ意味がありませんから。とはいえ安心できずに、門の守りを特に堅固にして、おびただしい狭間を設けたチロルのトローストブルク城という例もあります。一概にはいえません。


落とし格子

 城門には、「落とし格子」(英語ではポートカリス)が設けられることがあります。
 これは、格子状に組んだ杭の下端を鉄で固めたもので、敵襲を受ければ城門に落として敵の侵入を防ぎます。すでに敵が門の下まで入って来ていれば、相手の前後に落として封じこめてしまうこともできます。13世紀初頭の叙事詩『イーヴァイン』では、主人公のイーヴァインがこの罠に捕らわれてしまいます。

 ドイツの城に出現するのは、十字軍以後のことで、堅固な城門建築あってこそ役に立つ代物ですから、小さな城では見られません。ヴェルニツ河畔のハールブルク城、ヤークスト河畔のエルヴァンゲン城、チロルのライフェンシュタイン城などにあります。


城壁と狭間

 城によって石を組んだ城壁の様はまちまちですが、たいてい厚さは1〜5m、高さは3〜4mがふつうです。切り立った崖の上など、石を持ち上げるのも難儀なところでは、1mの胸壁にすぎないこともあります。
 城壁に用いた石材はクレーンで持ち上げました。よく観察すると、城壁や館を成している石にはどれも真ん中に小さな窪みがあります。石をクレーンで運ぶとき挟むための穴で、ツァンゲンロッホ(鋏の穴)というそうです。

 城壁の天辺は平らにはなっていません。規則的な凹凸が鋸のようにつけられ、西洋の城らしさを示しています。これは、狭間(ツィンネ)といって、城兵が身を守りながら防戦できるように城壁上部に刻まれたものです。狭間は敵の視界を遮るため、どこに少ない守り手がいるのかを隠す役目もはたしていました。
 安全性をより高めるため、シュタウフェン朝(1138~1254)以降は、危険にさらされる城壁に背丸角石(ブッケルクァダー)が築かれました。見た目も美しいのですが、これは城の攻防の際に、前方に二つの車輪をつけた突撃梯子が城壁にひっかかるのをじゃますることで、防衛に働く仕組みなのです。

 城壁の内側には、幅の狭い守備回廊が設けられていますが、これはふだんの連絡通路としても用いられます。騎士や家族は、城内の各部屋へこれを伝って容易に移動できました。ネッカー川に沿うグッテンベルク城の本館とベルクフリートは、防御壁の上にある歩廊でつながっています。居室と回廊はふつう同じ高さにあり、下働きの男女はそれらより一段低いところ、地階の部屋で労働していました。

【コラム】盾壁(シルトマウアー)


狭間窓・床狭間

 城壁内から射撃をするために、壁には縦に細いスリットが開けられています。
 これが、狭間窓です。
 一本の細い垂直のスリットなら、弩兵がつきます。塔や城壁からの射程範囲を横に拡大するためには、垂直のスリットの上端・下端を水平方向に広げる必要がありました。下端が大きく広がり、木の台が備わっている狭間窓は、火器を使うための銃眼です。
 なお、フランス語で矢狭間はムルトリエといい、字義的には「人殺しの窓」を意味しました。

 城壁の上部がせり出し、壁沿いを睨むように穴が開いているのは、床狭間といいます。
 城壁にとりついた敵兵めがけ、上から煮えたぎる油、焼けたピッチ、石などを浴びせるのです。



PREVIOUSBACKNEXT