「さあ、今こそ拙者は桎梏を逃れ、大いに飲みかつ啖おうぞ」
(シュタインマル『秋の歌』)
では、中世に騎士たちが催した宴会がどういうものであったか見ていきましょう。
まずは、宴会場の様子から。
宮廷が開かれている君主の城であれば、その居館(パラス)の一室、それも「騎士の広間」と呼ばれる階上の大広間が宴会の舞台となるでしょう。壁際には、城の貴婦人自らが刺繍した、騎士物語を題材とするタペストリーがかけられています。
床に敷物がひろげられ、その上に草花が撒き散らされるのが通例でした。敷物に香水をまいたか、食卓の下で香を焚きしめたのか、辺りには芳しい匂い。壁を横に見ていくと、城主と家臣たちの盾がかけられ、数々の彩色された紋章が広間に華を添えています。
天井を見上げると、豪奢な王であれば銀製の、ふつうの城主たちなら鉄の輪のシャンデリアが吊されているのが眼に映ります(もっと貧乏だと、木製の十字組みにまでランクが落ちます)。輪の上辺には釘が上向きに等間隔ではめられていて、ここに蝋燭をさし込むのです。
よく見ると、壁には輪が取り付けられていて松明(たいまつ)を灯せるようになっていますが、松明には壁画や敷物を煤だらけにする欠点があり、あまり好まれませんでした。夕刻の宴会では、テーブルに小さな燭台を置く方が望ましかったようです(もっとも蝋燭は高価につきました)。
さて、台所では料理人たちが懸命に働いています。大鍋ではスープが煮え、見習いの少年は焼き串をそろえ、下女は野菜を洗って切り、……そうした大騒ぎを横目で睨みながら、内膳正(ないぜんのかみ)−宮廷の食料調達および宴席の給仕を執り行う官職−はおおぜいの給仕たちに指揮を下し、宴会場に食卓と椅子を運びこみます。メインテーブルをはじめ食卓は白いリンネルのテーブルクロスで覆われ、椅子には座り心地の良いクッションが敷かれました(詰め物は鳥の羽か、もしくは馬や羊の毛)。
なお、広間が狭くて客人たちが入りきらない場合は、戸外に食卓を並べました。厨房から会場が遠くて手間がかかるぶん仕度は大変ですが、それでも手抜きはできません。
準備が整うと、宴会に出席する王族や騎士、高貴な人々が宴会場に入ってきます。
内膳正は、彼ら・彼女らが身分に応じた席順を守るように、指揮棒を振ってそれぞれの席を指し示して案内しました。席の上座・下座は、ときに序列をめぐる血なまぐさい争いのタネになりました(司教同士の決闘に至った例さえあります)。
こういった争いを避けるために詩人が考え出したものが、あの有名な「円卓」(table ronde)なのです。アーサー王宮廷の誉れ高い騎士たちは、おたがいに同格の立場で「角や尖ったところもなかった」円卓を囲んでいました。
実際には、宴席のテーブルは丈が低く細長い長方形をしており、並列に、あるいは壁にぐるりと沿って並べられていました。主人役である城主はメインテーブルの長い一辺の真ん中に座り、彼と彼の夫人を中心として、その左右に客人たちが座りました。もちろん身分の序列を守りながら。宮廷の主の隣やその近くに座るのを許されることはたいへん名誉であり、新たに叙任された騎士がその恩恵に与ることも多かったようです。ちなみに、従者である見習い騎士たちは、主の給仕役としてその向かい側の席に座りました。
長いテーブルの代わりに、二人ないし四人の騎士が座れるぐらいの小さな卓が多数使われたこともあり、優雅でモダンとされました。向かい合う二人、またはもっと多くの人々が皿やナイフを共有していた様子がうかがえます。
「向かい合う」という言葉から連想し、宮廷詩人が叙情豊かに描きだすのは、候や騎士たちにそれぞれ美しく愛らしい貴婦人が相伴し、洒落た会話を交わしながら二人一組で食事するという、微笑ましく艶やかなシーンなのですが……。中世後期に至るまで、男性と女性が別々のテーブルについたり、別の部屋で食事をしたり、宴席が終わって酒宴がはじまると除け者にされたり、それどころか、男どもが宴席を楽しむ様を「見物席」から文字通り鑑賞するにとどまっていたり……していたことも多かったようです(女王、王女、女伯などの一部のほんとうに高貴な女性方は例外ですよ)。男女が互い違いに座っていたところもあったと思いますが、時代と場所によるのでしょうね。
RPG的には格好のシチュエーションなのになあ。もちろん、こんな習慣をムリに再現する必要はありませんからね。蛇足ながら。
騎士たちが席に着くと、給仕人たちがおごそかに入場してきます。手を洗うための水盤とタオル、そして広間を明るく照らす蝋燭を持って。次には、楽師と歌手の一団が進み出てきます。トランペットや竪琴などの旋律にのせて、美しい婦人たちの歌声が朗々と響きわたり、献酌侍従(けんしゃくじじゅう)たちがぶどう酒の大壷を抱えて参席者のあいだをめぐり、ようやっと最後に内膳正の率いる行列が料理を山と運んできます。
それでは、どんな料理が出てくるか見てみましょう。
中世の正餐としてよく取り上げられる例を、パリ一市民の『道徳および家政論』から見てみましょう。これは騎士の会食例ではないものの、6コース24皿のメニューは貴族の宴会にも引けを取りません。
第一コース | 牛の脂および骨髄を刻み込んだ牛のパテ(肉かまぼこ)とうなぎのパテ、ブーダン(豚の血と脂の赤ソーセージ)、ひき肉詰めの木ひばり、ノルマンディー産のパテ。 |
第二コース | うさぎのシチュー(玉ねぎ、葡萄酒入り)、うなぎのシチュー、そら豆の濾し汁、牛と羊の大ぶり塩漬け肉。 |
第三コース | 去勢鶏、うさぎ、子牛、山うずらの焼き肉、淡水産、海水産の焼魚ほか。 |
第四コース | 辛子ソース入り鯉のスープ、脂肪とパセリのパン入りスープ添え肥えた去勢鶏のパテその他。 |
第五コース | 豚の脂肉入りスープ、米、うなぎ、海水、淡水の焼魚、肉だんご、クレープ、砂糖。 |
第六コース | プリン、花梨の実のサラダ、煮梨、糖菓。肉桂入り甘葡萄酒他。 |
豪勢な品々ですね。特別の大ご馳走であることを差し引いても、中世の人々がどのような食事風景を理想としていたかが伝わってくるメニューです。
では、概論と各論に移りましょうか。
今私たちが食べている食材の多くは、すでに中世には見出されていました(ただし、16世紀以降から普及するジャガイモを除きます。トウモロコシ、トマト、唐辛子なども同様です)。
しかし、中世の料理のメニューは、現代のものとはだいぶことなります。
いまでは、スープ、サラダ付のメインディッシュ、果物などの甘味、と変化をつけた配列のコースが各人に同じように運ばれてきますが、中世の宴会では、これらの料理を全部いっしょにテーブルに持ってきて並べ、食べる側が手の届く皿から選んで食べていました。大なり小なりデタラメな取り合わせで、コースといっても、食事の山が何回かに分けて出されるだけで、回ごとの配列の変化などは考えられませんでした。はっきりいうならば、胡椒(こしょう)やサフランなどの香辛料(スパイス)を濫用した肉料理・魚料理が、これでもか、これでもかと出てきたのです。
(コースの形式がある程度統一性を持ちはじめるのは、16世紀以降のことです。全員がメニューの料理を一通り口にし、客の一人ずつに料理が順番に出されるサービス形式となると、18世紀を待たねばなりません。)
中世では、身分により運ばれてくる料理の質も異なりました。序列の高い貴人の前に、より素晴らしい料理が来るのは当たり前でした。量においても、王様の皿には三匹載っている魚が、隅の貴族には一匹だけしかない……なんてこともあったようです。
宴会に並ぶ飲食物には、上流階級ゆえの豊富な栄養、莫大なカロリーがあふれています。しかしそれ以上に、中世の宴会には貴族の持つ富と力の誇示、身分秩序を示す食文化がはっきりと見て取れます。近現代からは、意味不明で粗雑な「美食」に見えるかもしれませんが、中世の人々は、飲食という行為への思いや憧れ、その背後に透けて見えるシンボリックな幻想の方を重視していたようです。それは後々あきらかになっていくでしょう。
肉料理といえば、焼き肉がまず挙げられます。
焼き肉は、古代ローマから中世に至るまで、下ごしらえに一度茹でてから、焼き串に通して回転させながら焙り焼く(ローストする)のが上流階級での一般的なやり方でした。今のシェフが見たら、美味しい肉汁が茹で汁の中に流れ出てしまう(!)この調理法に愕然としてしまうでしょう。
ローマにもアルケストラトスのように、野兎は「焙り焼き、多少生焼けのうちに串から外し、塩だけふりかけて、腹を空かした客に出す」のがいちばんいい食べ方だと主張した人はいました。しかし、古代の料理人たちは、単に焙り焼いた血の滴る生肉は「野蛮」であり、一度茹でる方が手間をかけているため「進歩している」と考えていたようです。
狩猟鳥獣を食卓に並べるのは、山野の狩猟権を独占した王侯貴族の特権でした。ふだんは塩漬け肉ばかり食べていたせいもあり(時代・地域・身分により差はありますが、年間一人100kg以上(!)の肉消費量の3/4が塩漬けでした)、騎士たちは狩猟でしとめた野獣の新鮮な肉を好んで食べました。
特に好まれたのが、鹿や野呂鹿(のろじか)、猪、兎、雌のオオライチョウの丸焼きです。大きな鳥肉は丸のまま、他の焼き肉は最初から切り分けて出していました。鹿や野呂鹿などは、腹に香草を詰め込まれたり、香味液(マリナード)に浸けられてから焼かれ、銀盆に載せられて出てくるのです。フルーメンティ(frumenty)といって、小麦を牛乳の中でゆっくり煮て甘味をつけサフランで黄色く卵黄で濃くした粥を、鹿肉につけ合わせることもありました。
(ちなみに日常生活では主に、牛、豚、羊、山羊などを食べていました。ハム、ベーコン、ソーセージの類についてはいうまでもないでしょう。)
とくにメニューの中で重要だったのが、鳥肉の類でした。
鶏小屋に鶏がいっぱいいるかどうかで、その貴族が裕福かどうかが分かってしまいます。雌鶏、去勢雄鶏、鵞鳥(がちょう)、鳩などの家禽が多く、串焼きにして胡椒や丁字(ちょうじ)入りのソースをかけたりして食べました。酸っぱいぶどう汁(ヴェルジュ)風味の料理も多かったようです。鶉(うずら)、雉、野雁、鷺(さぎ)、鶴、千鳥、こうのとり、さんかのごい、白鳥、孔雀なども、ご馳走として騎士の胃袋に入りました。鳩、雉、鶏、千鳥などを詰めた三角形をした肉パイも、貴族の食卓をよく飾る料理でした。
ここに白鳥や孔雀など、今は食べない鳥が並んでいるのは奇妙な感じですが、当時の城では白鳥や孔雀を(観賞用というより)食用として飼っていましたし、固い孔雀の焼き肉は第一級の料理とされていました。14世紀のフランス王家に仕えた高名な料理人ギョーム・ティレル、通称タイユヴァンが『ヴィアンディエ』(料理人の書)で勧めているとおり、宴席のクライマックスで出てくる白鳥や孔雀は、くちばしと足を金銀に塗り、元通り皮と羽毛を被せて足をつけ、大皿の上に立て、まるで生きているかのように仕立てられていたのです。
通常の宴会で、魚と肉の料理が一緒に出てくるのは普通のことでした。
肉中心の中世ヨーロッパで魚が表舞台に現れるのは、肉食を断つため「魚の日」と呼ばれた四旬節(*)などの教会が決めた精進日(断食日)で、この時期には献立の内容が魚中心にかわりました。
(*)四旬節(Lent):復活祭(春分後の満月の後にくる最初の日曜日)と、復活祭に先立つ6週間より前の懺悔火曜日との間、約1か月半のうち、日曜を除く40日間。荒野のキリストを記念し、断食や贖罪を行う。毎年の2〜3月頃。
では、中世の人々は、どんな魚を食べていたのでしょうか。
名前を挙げていくと、鮭、チョウザメなどの高級魚をはじめ、鱒(ます)、河かます、河ひめます、ヨーロッパうぐい、はぜ、ばーべる(にごいの類)、河めんたい(たら科の淡水魚)、鯉、てんち(ヨーロッパ鯉の一種)、わかさぎ、八つ目うなぎ、うなぎなどが食べられていました(『狐物語』の狐は、いつも川でうなぎを狙っていました)。鱈(たら)の塩漬けや干物も豊富でしたし、鯖(さば)、まぐろ、かれい、ひらめや、ロブスター、エクルヴィッス(えびがに)、牡蠣、海亀、ウツボなども食べられました。ようするに川海の別なく、貝から鯨に至るまで手近な物は何でも食卓に乗ったのです。
宴席ではこれらを焼いたり蒸したり、燻製にしたり酢漬けにしたり、胡椒や薬味汁で煮込んだりした料理が出てきました。魚の干物は何時間も叩かれた後にほかの料理の土台となり、魚の卵・はらわた・頭は煮て刻まれ香辛料をかけて供されました。かれいの塩焼き、焼き八つ目鰻パイ、白ぶどう酒ポーチの冷製魚ゼリーのような単純なものから、はるかに複雑なステップを踏む料理まで、やはり数え上げるとキリがありません。いずれにせよ肉料理と同じく、酸っぱい果汁、ぶどう酒、生姜、胡椒、シナモンなどを混ぜ合わせたソースが最終的に味を決定しました。
そうそう、かの有名な鰊(にしん)を忘れてはいけません。
鰊のエピソードも鰊の数ほどありますが、一つだけ紹介しましょう。
長い四旬節のあいだ、庶民たちはずうっと塩漬け鰊や燻製鰊(くんせいにしん)とともに過ごしていました。また貴族たちも例外ではなく、燻製鰊に芥子を合わせて何とか味をごまかそうと必死でした。この強烈なコンボは、口をすすぐために大量のぶどう酒を必要としました。そこで飲酒家は、精進日にもかかわらず、胃が酒の海になるほど飲む理由を考え出したのです。曰く、「魚は〈泳がねばならない〉」。
中世の人々は、ちぎったパンの細片をぶどう酒や野菜入り豚汁スープ(ソップ、ズッパ)に浸して食べていました。騎士や王侯貴族の宴席にふさわしいのは、とても細かい上等な小麦粉で焼いた真っ白なパンでした。(農民には、ライ麦粉やカラス麦粉で焼いた堅い黒パンがあてがわれていました。)
少しパンの種類を挙げましょう。ロールパン(ゼンメルベック)、8の字型の固パン(プレーツェル)、丸くて平たい渦巻きパン(フラーデン)、揚げパン(クラップフェン)、白パン(ヴァイスベック)、小型白パン(ヴェックベッカー)、黒パン(シュヴァルツベック)、ブロートベック、クーヘンベック、フラーダー、レープツェルター、などなど。
酸っぱい牛乳でつくられた凝乳(クヴァルク、カイユボット)はご馳走の一つです。
暖めた牛乳にぶどう酒やエールや果汁を加え、わざと酸化を促進させました。リンネル袋に入れて深鉢の上に吊し、1〜2時間乳漿を切った後、皿によそります。塩、または砂糖と生姜で味をつけ、黄色(サフラン)、赤色(紫檀)、緑色(薬用植物)に装われて呈されました。
チーズも人気のある食品で、15世紀の諺に「チーズと玉ねぎは食卓に良く運ばれてくる」とあります。もっとも、生のチーズをむしゃむしゃやるのは田舎者だとされ、王侯貴族の上品な会席では細かくすりつぶしたチーズを挽肉パイや薄焼きパンに使うにとどまっていました。荒くれ騎士たちの豪放な宴会では、庶民と一緒で気にせず手づかみで食べていたようですが。ある詩人は歌います、「古いチーズを持って来い。そいつを食らえば、酒がうまい」。
卵料理のバリエーションを豊富にしたのは、料理の研究に熱意を燃やした修道院でした。
汁に流し入れたり、半熟にしたり、固ゆでにしたり、ゆでて刻んだり、ゆで卵を焼いてみたり、目玉焼きにしたり、卵に詰め物をしたり、他の物と混ぜたり、かき混ぜ炒めてスクランブルエッグにしたり……。
また、バターは卵料理によく用いられ、オムレツを炒めるときにも使われました。
良い食事には、良い飲み物が欠かせません。
ゲルマン人はローマ人からぶどう栽培を学びました。中世、ドイツ中でぶどう栽培が盛んになって以来、騎士はぶどう酒を好むようになり、ビールは農民の飲み物だと考えていたようです。14世紀からドイツ諸地方の原産地を区別するようになり、アルザスワイン、ネッカーワイン、ラインワインなどが扱われました(主に白ぶどう酒)。清ワイン(ルーター・トランク)、清澄ワイン(クラレート)と呼ばれた薬味入り白ぶどう酒は特製品で、非常に強くすぐに酔いの回るものでした。修道院や高貴な君主たちは、南ティロールのワイン園からティロールワインをアルプス越えで輸出していました。
フランスでは、ボルドー・ブルゴーニュ地方の赤ぶどう酒はもちろんのこと、ギリシアやパレスチナ産の東方ワイン、そして高級品とされたキプロス産のマルヴォワジーワインなどが好まれました。
さて、宴席の騎士たちは、杯を回しながら、脂でよごれた口にぶどう酒を流し込んでいましたが、中世の風習ではぶどう酒をそのまま飲むことはまれで、薬味(薬草、胡椒などの香料、蜂蜜)を入れて飲むのが普通でした。
ありったけの香辛料を使った料理の後で、さらに〈胡椒入り〉のぶどう酒を飲む!
私たちには納得しがたいのですが、これはローマ以来の伝統なのです。
プリニウスは「ミルラ樹脂、ケルトのナルド香油、葦、天然のアスファルト」や、シナモン、にがよもぎ、サフラン、ラヴェンダー、ゲンチアナなどの香料をぶどう酒に入れると語っています。他にも、生姜、アロエ、ヒソップ、ディル、ローズマリー、クローヴ、ナツメグ、セージなどが投入されました。
また、直接に関係するか分かりませんが、中世ドイツでは、赤ぶどう酒に薬味や砂糖を入れて熱くしたグリューヴァインという飲み物は、ふだんから朝のコーヒー代わりに嗜まれていたようです。
もっとも、中世では、ぶどう栽培に不適当な地域のできの悪いぶどう酒を飲めるよう、工夫した意味もあったのでしょう。王侯貴族と一部の富裕市民は上等のぶどう酒を飲めましたが、一般の人々は、不完全な醸造用の木樽でつくられた、酸っぱいぶどう酒を飲んでいたこともあります。(飲めないほど酸っぱいワインは漆喰に混ぜて、瓦を強化するのに使われたぐらいです。)
ぶどう酒に香料をいれて香りをつける習慣は、中世末まで長く続きます。
(また、ドイツでは行われませんでしたが、フランスではぶどう酒を水で割って飲んでいました。当時のぶどう酒は今より度が強いものだったようです。)
デザートは、揚げ物、ゴーフル(軽焼きせんべい)、ウェファース、果物のパイ・タルトに砂糖漬け、ケーキやマジパンなど菓子パン・香辛料入りパン、甘いクリームやジャム、生姜の匂いつきアーモン入り糖菓など、木の実の菓子類、蜂蜜入りぶどう酒などが主なところです。
(ちなみに、アイスクリームやシャーベットがスペイン・シチリアからフランスに伝わって普及するのは、17世紀のこと。)
果物は、夏には生のまま、冬には様々に調理されて食卓に並んでいました。リンゴ、梨、まるめろ、干しぶどう、無花果(いちじく)、なつめやしは冬に手に入るので、料理本によくお目見えするわけです。
しかし、これがいかにも中世風の手が込んだもの。
たとえば苺(いちご)ですが、夏には砂糖をかけるだけ。
ところが別のところで、正気の沙汰とは思えない調理法が解説されています。
すなわち、苺を赤ぶどう酒で洗って漉し、アーモンド乳液で煮て、干しぶどう・サフラン・胡椒・砂糖・生姜・シナモン・ばんうこんを加え、さらに、油を入れてかき混ぜ、酢で香りづけをし、赤い染料アルカンナで着色され、ざくろの実で飾られ、ようやくテーブルに運ばれるというもの。中世の料理人の狂気が垣間見える一品です。
すでに苺とは違うものになってる気もしますが……。
これは極端にしても、軟らかく煮て裏漉ししたリンゴのピューレ(アーモンド乳液、蜂蜜、塩、パンくず、サフラン、くだんを混ぜる)やら、今でもフランスで見られる「コティニャック」(固いまるめろの実のオレンジ色をしたジャム。皮と芯を取り、赤ぶどう酒で煮て、潰して蜂蜜と混ぜ、適度な濃度になるまで火を通して香辛料で仕上げる)やらを見るにつけ、どんな果物でもたいして料理法に違いはなさそうです。
他にも、洋梨、桜桃(さくらんぼ)、桃、プラム、スモモ、ラズベリー、木苺(きいちご)、すぐり、アーモンド、はしばみ、くるみ、栗、レモン、オレンジなどが食べられていました。十字軍以後は、アンズ、メロンが加わりました。
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つらつらと書き連ねましたが、RPGでこういった類の知識をどう使うか、あるいは無視するかはあなた次第です。上に書いたことは中世の食生活のなかのほんの一部ですし、資料がすべて正しいとも限らないことに注意して下さい。
いっぽうで架空のファンタジー世界には、もちろん現実の中世とは異なる点が多々あるでしょうし、見たことも聞いたこともない空想上の食べ物や飲み物にチャレンジするのも面白いでしょう。そんなとき、この文章が何かの参考になればとても嬉しいですね。
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ここでは、食卓に並ぶ道具類にも少し触れてみます。
上の方で、客一人の皿はなく数人分が一つの鉢に盛られていた、と書きましたが、自分専用の鍋、皿、コップなどを使えるのは、ごく序列の高い貴人に限られていました。とうぜん、金銀の皿は誰もが欲しがるけれども貴族にしか持てない物でした。階級が下がるにともない、真鍮と錫(ピューター)がこれに代わりました。
食器はどうしても不足ぎみで、宴席では、ふくらまさずに焼いたパン切れを受け皿代わりに使っていました。これを敷板といい、6×4インチくらいの大きさで、肉や魚の取り皿として使われ、こぼれた汁も吸い取る便利な物でした。一般の客は、近くの食パンを切って敷板をつくりましたが、VIPには周囲の人が敷板をつくって差し出しました(宴席の主人には三枚、その息子には二枚、最も身分が低い者には一枚の敷板が渡されるというように)。
王侯貴族の食卓では、ふやけたらすぐ取り替えられるよう、テーブルには何枚も敷板が重ねられていました。このパン切れは食事の終わりに食べてしまうこともあれば、給仕たちに配ったり、貧しい人々に与えられたり、犬に投げてやることもありました。
陶土、木、金属製の敷皿(trencher)もありましたが、古く堅いパンの敷板は何かと便利で、16世紀を過ぎても用いられていました。
ぶどう酒は大きな壷で食卓まで運ばれ、酒杯に注がれました。木彫りや木製の杯、陶土製の器、金銀の杯が並んでいます。カイイエと呼ばれる木、銀、大理石製のゴブレットがよく使われました。ガラスのコップは中世末期までめったにお目見えしませんでしたが、透明な杯に赤ぶどう酒を注いだという記述もあります。
中世では、食事は基本的に「手の指」とナイフ、スプーンを使って食べていました。
手で食べるというとマナーが悪そうに聞こえますが、貴族たちが鉢の食物をひょいと指先でつまんで敷皿の上に置き、肉を一口分にナイフで切って親指に乗せて食べる様子は、洗練を感じさせたことでしょう。
ナイフは最もありふれ、よく用いられた道具でした。肉を骨から切り離し手頃な大きさにするため、盛り皿から汁のついた食べ物を刺して取るために使われました。
招待客はナイフを一本所有していることが期待され、宴席には自分のナイフを持っていくのが普通でした。とはいえ、階級による特権はここでも働き、高貴で大事な招待客などには、主催者側がナイフを用意しました。もし客全体で少しのナイフしか持ち寄れなかったら、これらは信頼と信用の証として宴席で共同使用されました(14世紀イタリアの礼儀作法の本では、隣り合った二人の客が一本のナイフを共有するのは慣行とされていました)。同席した人(特に、隣の女性)のために肉を切り分けるのは親切なしるし、上品な気配りでした。汚れたナイフを自分のパンで拭うことや、塩壺からナイフの先で塩を取り敷板に置くのもマナーの一つでした。
ナイフの刃と柄は、パリ、ボーヴェ、ラングル、ペリグーなど多くの土地でつくられました。イギリスのシェフィールドは、当時から最高の刃物類の生産地でした。柄の材質は、木、角、真鍮から象牙、銀、ほうろうに金をあしらった立派なものまで色々ありました。
スプーンも初期の時代から用いられてきました。スプーンはシチューやスープをすくう時に使われました。(もっとも、スープを飲むには、肉汁の中の野菜を指でつまんだり、パンの欠片に吸わせたり、深鉢を傾けて直接すする方法もありました。)
一般的には個人の持ち物で、主人役は準備せず、招待客が持参するものでした。とはいってもスプーンの本数が十分でなければ、指を使わざるを得ませんでしたが。もちろん、富裕な貴族たちなら、客にスプーンを提供できたことはいうまでもありません。
最古のスプーンは木製で、時代につれて錫、青銅、銀など金属製のものが広まっていきました。珍しく貴重な銀のスプーンを思わず持ち帰ってしまう騎士もいたようで、自分のスプーンが持ち去られないよう見張ったり、宴会が終わる前に回収して在庫を確認したりする必要があったぐらいです。
一方、フォークは中世には登場しないことで目立っています。むしろ台所の調理用具として使われたようで、大きな焼き肉を取り分けて、上流客用の皿やパン(敷皿)の上に置くために使った大きな鋏のような二股フォークが絵に残っています。
食卓に小さなフォークが登場するのは、ビザンティンが初めてでした。11世紀にビザンティンの王女が未来の総督ドメニコ・セルヴォと結婚することになったとき、祝宴の席で金のフォークを使って世間を憤慨させました(手で食べるのが普通だった当時では、こうした食べ方はぞっとする堕落とみなされたのです)。この後、ギリシャ、イタリアと伝わりますが、しばらく停滞します。14〜15世紀のヨーロッパでは、食卓の道具というより珍しい宝物として扱われていたようです。
1533年、カトリーヌ・ド・メディチがフランスに嫁ぐとき、料理人と調理設備を持参したのは有名な話ですが、フォークはこの中には含まれていなかったようです。17世紀初頭、トム・コリヤットがイギリスにフォークを持ち込みますが、これも長続きせず、それから100年ほど食事にフォークを使うのは変わり者だけでした。フォークが自然に食卓の上に置かれるようになるのは、17世紀末から18世紀のことです。
食事の前後に水盤で手を洗うことからはじめ、騎士や貴族たちに行儀のよい食事作法を教えるべく、中世には多くの人々が礼儀について述べています。
14世紀のドイツ人、タンホイザーは『宮廷作法』で次のように著しています。
「貴族たる者、他の者と一つスプーンから食べてはならない。
食事中に『おくび』を出してはならず、テーブルクロスで鼻をかんでもならない。
食べ物をスプーンにのせるのが難しいからといって、指でのせてはならない。
ぶどう酒を飲むまえには、脂が酒杯の中に滴らぬよう、口をぬぐっておけ。
ナイフの背に指をあてて切るのは、皮職人の流儀である。
食卓にだらしなく寄りかかるのも、よいことではない。
食事中には、首が痒いからといって指で直接かいてはならない。
どうしてもかきたければ衣服でこするようにすべきである。
パンをかじってから、それをまた鉢に浸すのは『ど百姓』の流儀である。
しゃぶった骨を鉢に戻すのもいけない。
口に食べ物を頬張ったまま飲むのは、家畜のすることである。」
他にも、肉や卵をあちこちつつき回すな、鉢の中にずぶっと手を突っ込むな、テーブルクロスで汚れた手を拭くな、指で鼻をかんだり耳の中をかくな、食事中に不潔な場所をかくな……などなど。
事細かな注意からは上記の不作法が(毎度でないにせよ)実際にあったことが読みとれ、宴会の愉快な様子も分かろうというものです。こうした作法を内々に守らせることで、貴族たちは、農民の陽気で猥雑なパーティと一線を画し、「高貴な身分からなる宮廷の宴」を確立していきました。手洗い用の水にバラやハッカ、くまつづらの花びらを浮かべたりしたのも、上品さの演出でした。
御婦人方には、また別のマナーが課せられていました。
上品であるためには、女性は食事時に喋りすぎないように心がけねばならず、飲み食いも程々におさえることが求められました。食後の手洗い水が汚れると、はしたないとされたぐらいです。そこで、彼女らは一計を案じました。宴会が始まる前にあらかじめ食べておき、いざ宴会の場ではほんの少しつまむ程度にしておいたのです。こうすれば、胃袋と体面の両方を満足させることができますからね。
宴席には音楽の演奏がともないました。そればかりでなく、料理や酒を口にしながら、耳や目をも楽しませる余興もたくさん催されたのです。
フランス語で食事のコースが「メ」(mets)であるのに対し、余興は「アントルメ」(アントルは、フランス語で「間」の意味)と呼ばれていました。英語では「サトゥルティー」(soteltie)と呼ばれました(すぐ分かるとおり、全然とらえにくい(サトゥル)とは思えないのですが)。
中世の饗宴は五感すべてに訴えるもので、食事はそれらを楽しむ良い機会でした。歌や芝居やからくり人形をはじめ、客を驚かせる趣向や道具立ての数々は、12〜13世紀にフランスとイングランドの世俗宮廷で始まり、15世紀のブルゴーニュ宮廷で華麗に花開くことになります。
「……きわめて洗練されたテーブルマナー、砂糖細工やマルチパン細工の大きな人形、卓上の噴水、機械仕掛けの卓上飾り、無数の異国風料理、中から小人の飛び出してくる巨大なパイ、料理一品一品の内容に合わせて演奏される音楽、踊り手の着けた動物の仮面、食事中に演じられる大がかりな寓意劇、召使いの複雑な序列、儀式ばった肉の切り分けや味見、馬上からの給仕等々……」
祝宴の席に運ばれてくる「生きた鳥の入ったパイ」は、ナイフを入れると「中から小鳥が飛び立ち、つづいて猛禽が飛び出して、小鳥を追いかける」仕掛けです。これと似たようなものには、「巨大な砂糖細工の城」があります。やはり、中からたくさんの小鳥が舞い上がり部屋でさえずる、という趣向です。また、生きている豚が走り出て、それを狩りの獲物に見立てて捕まえる一幕が催されたりもしました。
おそらくその他にも、考えられる限りのことをやってのけたでしょう。
もはや宴会というよりサーカスですが、この騒々しいサーカスの後ろには、宮廷社会が特別で貴族の生活様式が真似できないものだと、民衆に印象づけようとする気持ちが読みとれます。宴会は、誇りと威厳を持って見せびらかすものでした。同時に、ふんだんに振る舞われ食べきれない食べ物や飲み物は、宴会を見物していた人々に与えられたのです。
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中世の宴会、いかがでしたでしょうか?
お腹はいっぱいですか? そう、それは良かった。
向こうの騎士たちは、酒杯を手に一晩中でも楽しくやるつもりですね。
豪快な笑い声が聞こえてきます。
名残惜しいですが、私たちはそろそろお暇するとしましょう。